市川の
大きな独り言、小さな叫び



[2020.2.10 M]

留学すると言う事

 昨年12月14日に、マレーシア学生団体主催の送別会に出席して来た。日本人同様に1年次から入学、あるいは3年次に編入して来たマレーシア人留学生のうち、来年3月に卒業する学生の門出のための会であり、全員が工学部生である。今年度は研究室にマレーシア人の学生がいるため、指導教員として参加の声がかけられた (補1)

 これを機に “留学” と言うことの目的や意味を改めて考えてみた。ただし、ここで言う留学とは学位取得 (補2) を目指した正規の登録学生としての資格で国外の大学に進学することに限定したい (補3) 。歴史を遡れば、日本の遣隋使・遣唐使に見られるように、途上国から先進国に赴いて新しい進んだ何かを学んでくる、と言ったことが始まりなのだろうと思える。おそらくこれは世界共通だろう。しかし、国際的な交流が進んだ今日では必ずしも昔のような一方通行だけが留学の形ではない。

 ある特定の目的があり、その国へ行かねば何もできない、始まらない、とすればそれは留学する非常に強い動機付けになる。特に大学院のレベルになるとこれは顕著である。それに対して、地球規模での情報共有や教育システムの標準化が進み、各国の大学は国際交流に相当に熱心である今日、4年前後の学部教育を受けるに “絶対に〇〇国で” のようにこだわる必要があるとはあまり思えない。

 それならば、なぜ留学をするのだろう。中等教育を受けた母国でそのまま大学に行く方がはるかに楽であることは間違いない。受験生が進学先を選ぶ際や、学生が(あるいは社会人でも)将来の進む道を決める際には、沢山の要因がある (補4) 。当然のように、時とともに優先順位が変化したり、新たな要因の出入りもある訳で、それを節操がないとか、いいかげん、意志薄弱と批判する気にはなれない。留学の目的と言って本稿を始めたが、ここから先は目的や動機は不問として、留学の結果に絞って考えてみたい。

 いきなり結論になるが、私が思う留学の最も大切な成果は “異なる環境・文化、違う世界を知り得ること” である。インターネットで世界中のありとあらゆることが手に取るように知識として得られる現代においてさえ、本当の感覚、と言ったものはその場に行ったことがなければ分からない。

 この意味で、(英国式の教育制度を基にした)マレーシアから日本への留学は、旧宗主国の英国や隣国の豪州・インドネシアの大学への留学などと比べて、はるかに強いインパクトと高い価値があるはずである。ましてや米国人が英国の大学に、ドイツ人がフランスの大学に留学するなどとは比較にもならない。

 私は決して国粋主義者ではないが、日本は近代社会において、西欧語に基づかない社会制度をもって先進国に到達した世界で最初の国だと理解している (補5) 。したがって、西欧語による教育を受けてきた人々にとって、様々な点で、日本はまさに想像を絶する国であったとしても驚きはない。この社会や文化を自分の目で見て体験すること、および自国と対比できることも、それ自体が海外からの留学生の特権だろう。

 マレーシアから本学に留学してきた学生達は、卒業する頃には、マレーシアの文化、英国流の文化、そして日本の文化、と言う最低でも三つの世界を実際に経験して来たと言って良い。これは大学を卒業した後の彼らの将来にとって、得難い財産でありまた大変な武器になることだろう。


補1
 時期的に少々早い気もするが、1月・2月は勉強が忙しいため、今年は早く開催したとのことである。

補2
 日本では会話の中で学位と言うと、大学の中でさえ、誰しも博士のことしか思い浮かべない。しかし、海外の場合、一般に学位と言うとまず学士を指す。その次に higher degree と呼ばれる修士や博士が来る。ちなみに学士は first degree である。

補3
 昨今、多くの大学では国際交流の実績を作りたいためか、短いものでは2週間程度のものまである、短期留学を熱心に推進しているようである。これはこれでそれなりの意味もあるが、言ってみれば留学ごっこのようなものでもあり、学位を目指して人生をかけた留学と比較するものではない。

補4
 例えば、私がかつて英国に留学していた時代、少なからぬ英国の大学にノルウェー人の学生が沢山いた。当時、ノルウェーには大学進学希望者よりもかなり少ない学生定員しかなく、多くの進学希望者は海外に出ざるを得ないとのことだったと記憶している。

補5
 日本がこの先も先進国と呼ばれ続けるかどうかは、また別問題であろう。