市川の
大きな独り言、小さな叫び



[2019.9.11 W]

試験の点数

 私達、日本で育ったものは試験の話をする際、まず無意識のうちに100点満点を前提にしている。さらに大学であれば合格点は60点としか想像できないと言っても差し支えないだろう。 入学試験ならば0点から満点まで全ての点数に意味がある。しかし、大学の試験では59点以下には意味がない。そこで、今回は、60点から100点の間の数値に限定した話をしたい。

 試験の採点基準は、当たり前だが、各教員により異なる。(その根拠はここでは議論しないが、)これは全く妥当なことだと私は思っている。原理原則から言えば、合格と不合格の境目はおそらく誰が採点しても大きく変わらないはずである。しかし、合格者の点数の分布は試験を行う者によって大変な差がある。ただ単に点数を付けるだけならそれで構わないのだが、複数の(多くの)教員の科目の試験結果を総合して学生ごとの評価をするとなるとたちまち問題が生じる。現在、多くの大学で採用されている GPA がまさにそうである。

 ちょっと見方を変えると、GPA とは学生が試験の点数に比例して稼いだお金の合計と見ることも出来る。すなわち、稼いだ金額が多いほど優秀な成績、と言うわけである。ところで、学生が稼ぐこの金額は各科目の採点基準により決まる。すなわち、全体的に高い点数を付ける教員はそうでない教員に比較して多額のお金を学生に配分していることになる。結果的に、他の教員よりも強い影響力を行使している訳である。その根拠は何だろうか。自分の科目を受験した学生は他と比べてより優れている、自分の教育は他の教員に比べて優れている、等々の信念があるからなのだろうか。しかし、誰もが受け入れられる合理的な説明は容易ではない。むしろ、ほとんどの場合、説明不可能だろう。海外でも割と良くあるそうだが、まあ、自分の学生に良い点を出したい、と言ったところではないか。

 ところで、異なる文化や社会では試験の点数の付け方は全く異なってくる。経済学者の森嶋通夫氏によれば、点数の付け方ではインフレ系の米国、日本、超インフレのイタリアに対して、デフレ系の英国、超デフレのインドなど、様々なようだ。例として、合格と最上位レベルの基準が米国ではそれぞれ60点,95点に対して英国では34点,70点であると。ただし、米国の95点と英国の70点の学生の割合はほぼ同じだろうとも述べておられる。 (補1)

 一般に試験点数が高くなるほど受講学生数は増え、(大学による)教員の評価も上がりそうである。だからと言って、学生に良い点数を出す競争を教員が始めだすと試験点数のインフレが続き、その試験の点数は加速度的に意味を持たなくなってくる。すなわち、学生側からすると、自分の本当の成績や出来具合が分からなくなるのである。ブレーキがかからなければ、やがてほとんど全員が満点に近い点を取るようになる日がやってくる気もして恐ろしい。ここまで来ると、成績評価は単に合格・不合格の二段階評価に過ぎなくなる。

 もしも多くの大学の GPA がこのような数値を根拠にしているとすれば、意味がないどころか益少なくして害多しである。学科やコース選択、奨学金の可否、などでこんな数値を使われては学生は堪らない。これを避けるためには、共通の基準が不可欠だが、(自分達の子供時代からの長い経験を通して見ても)日本の学校に絶対評価の文化や技術・能力が根付いているとはとても思えない。 (補2)

 そこで、より合理的で簡単に導入できる手段として、各科目の合格者の平均点を(正確に)一定にすることを提案、と言うより強く主張したい。日本の大学であれば60点と100点の中間値である80点とするのが最善だろう。こうすれば GPA に対する各科目の影響を公平に保つことが可能である。

 同じ大学・学部・学科・コースであっても、科目間・教員間・年度間の格差、さらに受講者が極端に少ない場合の影響をどう処理するのかとの批判は当然出るだろう。しかし、それらを正しく評価するものさしがあるのか、と私は逆に問いたい。人の能力をはかることを定規や体重計と同様に考えてはならない。測定の結果出てきた数値には、使用したものさしに応じた精度しかないのである。私が提案した方法を採用すれば GPA の精度は今よりもはるかに向上する。しかしそれでも、GPA とはそれなりの精度しかないことを忘れてはならない。この点を理解できなければ、GPA の数値は使用するべきではない。

 私は年中行事の如く毎年、学生に言っている。“君たちの成績表に出ている数値は、同じ年に同じ教室で授業を受けた人間の間だけで通用するものと理解しておきなさい。”


補1
森嶋通夫,『イギリスと日本』(岩波新書, 1977).
 かなり古い文献だが、人々の本質的な考え方や習慣はそれほど急に変わる訳ではないので、結構、現在でも通用するところがあるのではないか。なお、この本には、第二次大戦後に日本の学制が変わり、新制高校になって高校生が子供っぽくなったから特定の大学や学部に殺到するようになった、とか、大学生がもう少し子供っぽくなれば大学院へ殺到するだろう、との指摘もあり、非常に面白い。

補2
 たとえば、英国の大学には外部試験官と言う制度があり、それが機能しているようである。実際、英国では出身大学には関係なく卒業時の学業成績が意味を持っている。ただし、長い年月をかけて積み上げられたものなので、いきなり導入・実施することなど到底不可能である。