市川の
大きな独り言、小さな叫び



[2018.11.30 F]

良い授業

 大学における“良い授業”とはどんなものだろうか。これに関して、もう10年以上前になるが、私の3年次対象専門(選択)科目における授業アンケートの自由記述欄の内容をいつも思い出す。

“明解な説明で非常に良く分かった。すばらしい授業で文句を付けるところなどどこにもない。”
“何を言っているのかさっぱり分からなかった。最低の授業だった。”

この両者は同じ年度に同じ教室で同じ授業を受けた2名の学生の反応である。これは極端な例だが、特に驚くことはない。似たような経験のある教員も多いだろう。受講学生の学力と関心次第で、受け取り方は大きく変わるものである。その内容にあまり興味のない学生は、出来るだけやさしい授業の方が嬉しい。一方、やる気も学力も高い学生にとって、簡単な授業など真剣に聞く気がせず、集中力が切れてしまう。現実の授業のレベルは両極端の間のどこかだが、教室にいる全ての人間が満足する授業など有り得ないだろう。 (補1)

 そもそも、授業が教育や学習の全てではない。高等教育においては、読書や思索による独学が最も重要で、授業と言うものは単にそのきっかけを提供するだけのものであり、また他者との議論は独学を補助・促進するものである、と私は捉えている。 (補2)

 要するに、大学と言う学校の中の教育システムではあるが、授業だけでは学習は完結しないのである。言い換えると、授業以外のところでどれだけ勉強するかにかかっている。これが高校までの中等教育と決定的に異なっている点である。この意味を理解出来ていなければ、大学を卒業したところで大学卒の価値は無いと言っても良いだろう。

 私の勤務する大学の工学部では半期に一度づつ、公開授業を行っている。言わば、同僚教員による授業参観である。他の教員が何をどのようにしているのかを実際に窺い知る貴重な機会なので、私は出来る限り参加するようにしている。しかし、他人の授業のどんな良い部分でも、そのまま自分の授業に適用することは出来ない。なぜならば、どんな人間を育てることを目指してどのようにやって行くかによって、授業の内容とやり方は大きく異なり、それは教員個人の教育観や哲学に強く影響されるからである。目指すものが違えば、同じことをしてもその意味や効果は、正反対になる場合もある。これは、どちらが優れている、劣っている、と比較する話ではない。 (補3)

 結局、冒頭の授業アンケートの記述に尽きるだろう。細かい部分の授業技術は置いておいて、目に見えるものだけを捉えて、“必ず良い”と言える授業などあり得ない。しかし、“悪い授業”はあると思う。


補1
 さらに、人間が関わることなので、学問とは全く無関係に、教員と個々の学生との相性の影響もかなり大きいと言える。

補2
 理想論・建前論と一蹴されそうだが、実際、ほとんどの大学では、大学設置基準に従い、「2単位=30時間の授業+60時間の自習」と言う計算をしているはずである。但し、ここでは1時間=45分が実態である。

補3
 たとえば、授業の要点を整理した資料を学生に配布するのは是か非か。