市川の
大きな独り言、小さな叫び



[2018.10.24 W]

評価

 現代に生きる私達は、常に“評価”と言うものに付きまとわれている。特に、学校と言う制度は評価と無関係には存在し得ない。まずもって、教わる側は試験を受け、その成績によって修学が成ったか否かを判定される。普通、私達は評価の結果を何よりも心配する一方、評価のものさしに対してはそれほど気を配らない傾向がある。おそらく、評価、すなわち試験ならば採点、は概ね正しく為されている(に違いない)と良い方向に解釈しているからであろう。

 ところが、ちょっと冷静になって考えればすぐに分かるように、評価者(採点者)の考え一つで最終的な評価点はどうにでもなるのである。例えば、10問で百点満点の漢字の書き取り問題があったとして、各問10点づつではなく、一つ目の正答に91点を、残りの正答に1点づつと言うような配点であったならばどうだろうか。

 大学生は何十科目もの授業を受け、それぞれに対して点数が付く。今、多くの大学では、それらを総合した成績を4点満点の数値で表し学生に順位を付けるようになって来ている。この数値は grade point average (GPA) と呼ばれている。このようすると、さも厳格かつ正確に学生の成績が表現されているように見えるかもしれない。ところが、各科目の点数の付け方、具体的に言えば、授業を担当する教員間で点数の付け方に関する統一がとられていない場合が大半ではないかと思う。すなわち、最終的に出てきた各学生のGPAと言う数値自体にはそれほどの精度はないのである。 (補1)

 ここで非常に大きな問題は、そのような数値、GPAをあたかも絶対的な指標として色々な場面で活用するようになって来ていることである。奨学金・就職活動・研究室配属、等々。前述の理由により、同じ大学内であっても、異なる学科や学部の学生のパフォーマンスを一つの数値で比較することなど、無謀かつ無意味としか私には思えない。ある数式でもって定義された数値は、その定義の範囲内でしか正しい意味を持たない。この点で、今、多くの大学で利用されているGPAの一人歩きは、大学教育の場において、むしろ危険ですらある。 (補2)(補3)

 このGPAの一人歩きはさらに副作用を伴っている。教員が各学生に付ける試験の点数が(どんどんと)高くなりがちになるのである。学生にとっての成績であるGPAとは別に、各科目ごとに教員が付けた点数の総合と言える(やはり4点満点の)grade point class average (GPC) と言う数値がある。GPCが高ければ甘い、低ければ辛い採点と言えなくもない。これに関して、GPCが低い場合、まるでその授業担当教員がきちんと教育をしていないかのごとく批判をする声も出ていると聞く。これもGPA同様に、意味のない数字に基づいて教育を破壊する行為に等しいと言って良いのではないか。

 要するに、重要な点は、GPA に限らず、元となるデータとそれを用いた算出方法が適切でなければ、最終的に得られた数値には大した意味は無いと言うことである。少なくとも、自然科学系の(大学)人であれば、この程度のことは簡単に想像がつくと思うのだが。 (補4)

 なお、海外の大学との関係における GPA については、機会があれば考えて見たい。


補1
 各教員間で、あるいは大学として、個別の試験の採点方法などを統一する必要があるだろうか。

補2
 多くの大学で、GPA を少しでも上げること(あるいは、下げないこと)を最優先に履修科目を選ぶ学生がいると聞くと、大学教育とは一体、何なのかと考え込んでしまう。

補3
 各教員が任意の基準や考え方で採点した場合であっても、GPAがほぼ正確にパフォーマンスを評価するものさしと成りうるのは、対象とする全ての学生が全く同じ科目を履修する場合のみだろう。

補4
 学術論文の評価に用いられるインパクトファクターに関しても、その利用の拡大に伴って、間違った使い方も目に付くようになって来たと感じられる。