市川の
大きな独り言、小さな叫び



[2018.6.11 M]

動員

 私の勤務する大学では、被雇用者たる教職員を対象にした種々の講義・講演会などの催しが折に触れて開催されている。所属する学部(要するに職制)を通じて案内が来るような比較的身近なものだけでも、年間で結構な数になる。勿論、その全てが全員に深く関係しているわけではない。ただ 厄介なことに、特定の催しに対して “動員” がかかる場合がある。これは、職場単位、たとえば教員の場合では、各学科から○名を出席させよ、と言うことである。

 私は、今いる国立大学で働き出す以前に、業種や規模の異なる2つの民間企業に(いずれも技術者として)勤務していた。開発や研究を主とする業務だったため、外部の講師を招いた講演会やセミナーもあった。上司を通じて “出来るだけ出席するように” と言われはしたが、職場への人数割り当てを伴って動員された経験は一度も無い。私の周囲でも聞いた記憶は無い。 (補1)

 したがって、私にとって、学内におけるこの頻繁な動員は不思議であると共に、何か気持ちが悪くて仕方が無いものとなっている。動員をかけられる側は成熟した大人であるから、その催しが自分の仕事に必要、あるいは利益になると判断すれば、誰からの勧誘・指示・命令がなくとも、参加するのが職業人として普通である。

 一方、動員をかける側はどう言う理由でそう言った事をするのだろうか。もしも参加者が少なければ、講師に失礼と思うのか、それとも組織の面目にかかわるのか。私はここに一つ問題があると思っている。すなわち、動員されなくとも(自分の意思として)参加する人数がその催しの本当の魅力を表しているはずである。実質的に強制された参加者数をもって “多数の参加をいただき盛況でした” との報告書を作成しているようでは、その催しの価値を正しく評価・判断することは出来ない。これは講師にとっても催しの企画・主催者にとっても不幸である。しかも、その催しの内容が将来につながるものであるほど、組織全体も含めて影響を受ける全ての人にとっての不幸でもある。 宣伝・勧誘をして聴衆を集めることは誰でもするだろう。しかし、動員と言う手段との間にはとてつもなく大きな溝がある。

 一体、講師は水増しされた聴衆を相手に話をして幸せなのだろうか。きちんと聞き手の方を向いて話をしていれば、望んで来た人間とそうでない人間の違いは、容易に目に付くように思うのだが。 (補2)


補1
 会社員時代の私にとって動員経験と言えるのは、新入社員の頃に労働組合から言われたメーデー集会参加のみである。

補2
 ただし、講師の満足度には次の3つの異なるものさしがあるように感じている。

(1)たとえ少人数でも、自分の話を深く理解して欲しい。
(2)理解は浅くても良いから、出来るだけ多くの人に自分の話を聞いて欲しい。
(3)寝ていても何をしていても構わないから、とにかく会場にいた人数が多い方が嬉しい。