市川の
大きな独り言、小さな叫び



[2018.4.7 Sa]

英語の試験

 大学入試(特に、新しく始まる大学入学共通テスト)における英語の試験のあり方が議論になっている。“読む”、“聞く”、“書く”、“話す”の能力をバランス良く身に付けていることを確認する必要があると考えているのだろう。しかし、果たして、本当にそうだろうか。言語のこの4つの要素がそれぞれ独立なものとは私には思えない。読む力が無ければ書けないし、聞く力が無ければ話せない、入口と出口の関係を考えればこのことは容易に理解出来る。誰でも、自分が使える英単語の数は読める英単語の数よりもはるかに少ない。書ける漢字の数は読める漢字よりもはるかに少ない。つまり、“書く”、“話す”能力は“読む”、“聞く”能力に依存しているはずである。別の表現をすれば、自分の中に無いものは、外に出せないのである。すなわち、“読む”、“聞く” は劣るが “話す” が優れている、など有り得ない。 (注1)

 大学入試の受験者数とそこで要求されている評価の精度、さらに事務処理体制までを考慮すると、“話す” 能力の試験を受験者全員に課す意味があるだろうか。さらに言えば、大学入試における“聞く” 能力の試験の必要性も私は疑問視している。 (注2)

 もちろん、大学入試が高校の教育現場に与える影響の点では、4つの要素すべてを入試で課すことは、日々の授業で4つの要素の能力向上を目指す良い動機付けにはなるだろう。しかし、「英語」の試験だけで合否を判定するならばいざ知らず、他の科目との合計点が物差しとなるならば、そこまでする必要があるとは思えない。それどころか、弊害さえ生じる可能性も大いにある。さらに、現在でも既に多くの大学で、大学入試業務の複雑さは増す一方で、“担当者が真摯に業務に取り組みさえすればミスなど起きるはずがない” と言うレベルを今の入試システムは通り越している、との声も少なくない。本質的にあまり意味の無い試験を追加することで、さらに入試トラブルを増やすようなことは考えない方が良い。

 日本の高校に通う全ての生徒が、いや大学進学を目指す生徒に限定しても、英語の4つの能力をフルに使いこなせるようになる必要はあるのだろうか。もちろん、出来ないよりは出来る方が良いに越したことはないが。昨今の日本国内における英語への取り組み方(のある部分)を見ていると、何かしようのない英語コンプレックスに突き動かされているように見えて仕方がない。


注1
 ここでの主題ではないが、本を読め、と言う意味はこのあたりにある。

注2
 30年以上前になるが、私は英国の大学院に進学した。その折、現地で出会った英語教師の一人は “British Council の行っている ELTS(現 IELTS)と比べると、(大学入学選抜において世界中で広く使用されている米国の)TOEFL は(読む・聞くだけに限定された)偏った試験だ。” と語っていたのを記憶している。確かに、その通りだろう。しかし、英米と日本の大学入学者選抜試験の違いを考えると、この理屈は、今、日本で話題になっている問題には適用できないと思う。